#1 自己紹介&これまでの経歴-第1弾-

私は、1992年9月21日に愛媛県松山市で生まれました。

バスケットボールは兄の影響で小学校2年生から始めましたが、
当時はまだスパルタな教え方が許されていた頃なので、かなり厳しかったのを今でも覚えています。

厳しい中でもバスケットボールの基礎をしっかり叩き込まれたからこそ、今の自分があると思っているので、小学生時代の監督には今でも感謝していますし頭が上がらない存在の一人です。

文集には将来の夢に
「プロバスケットボール選手になること」と書いていましたがその当時、日本にはプロリーグはなく大手会社の実業団しかありませんでした。

そこから月日が経ち、日本に初のプロバスケットリーグが誕生し、
①プロ契約のBJリーグ
②社員契約のJBLリーグ
2つのリーグが日本には存在しましたが、資金面では圧倒的にJBLのほうが多く、大学を卒業して皆が目指すのは安定した収入を得られるJBLの方でした。

私は、選手になるなら大勢の観客の前でパフォーマンスがしたいという気持ちが強く、お金は後からついてくるものだと信じて、BJリーグの大阪エヴェッサのほうに進みました。

周りからは安定していないプロに進むことを馬鹿にする人がほとんどで「バスケットで飯は食えない」と言われ続けました。

確かにその当時の契約は、ルーキーシーズンで年収300万でインセンティブなしの契約で家賃保証もなかったので、正直カツカツで苦しかったです。

とにかく見返したいという気持ちだけで続けて「1円でも多く稼ぐ」という目標を掲げてバスケットボールに打ち込みました。

そしてルーキーシーズンが終わり、次の契約の時700万の金額提示が目の前に出され、かなり喜んだことを今でも覚えています。

その時の700万はBJリーグの中ではかなり多いほうで、現在のように1億円プレーヤーがごろごろいる世界ではなかったので、ルーキーでもらえる金額としては破格の値段でした。

その時初めて努力が報われた瞬間を体験し、とても気持ちいいものであったと同時に私が調子に乗る瞬間でもありました。

明日もう少し、経歴についてお話しさせてください。

続く…

#2 自己紹介&これまでの経歴-第2弾-

前回の続きからですが、
私はその当時でルーキーとしては良い方の契約を結び、かなり調子に乗っていました。

そのシーズンから2つに分かれていたリーグが1つにまとまり、
新リーグBリーグが発足されました。
2つのリーグが1つになったことによってチーム数も増え、ディビジョン 1、2、3ができました。

私はディビジョン1に属する
「大阪エヴェッサ」にいたので、かなりレベルも上がり今までのリーグとは全く変わっていきました。

それでも私はそれなりに活躍していたので、次の契約もできるだろう、それにBリーグになってから選手の平均年収がぐんと上がり1600 万になったことから、次の契約では更にお金が増えると確信していました。

しかし結果は、調子に乗った態度や言動からの「解雇通告」。
職を失いました。
そして大学も含め 、7 年間を過ごした大阪を離れ富山県にある「富山グラウジーズ」に移籍することとなりました。

富山グラウジーズもB1に属していたので、レベルの高いチ ームで競争率の高いとてもいいチームでした。
正直居心地は大阪より良く、このままずっとこのチームでプレー出来たらいいなとも思っていました。

それなりに結果も出していたので、契約更新のオファーもいただき、お金もそれなりにいい契約で申し分ないオファーだったのですが、
ちょうどその時、横浜のチームからもオファーをいただき
「中心選手としてうちに来てほしい」という内容で、かなり悩みました。

いろいろな人に相談して決断するのですが、その当時アメリ カで頑張っている後輩の渡邊雄太と電話をしているとき、雄太は「大学を卒業したらNBAに飛び込んできます」と言って メンフィスグリズリーズに行きました。

それで私も居心地がいいところよりも、まだまだ上を目指すために横浜に移籍することを決断しました。

そこから横浜 2 年、島根 1 年、福島2年と、現在もバスケットボールを続けています。

#3 プロスポーツ選手の1日

基本土曜日・日曜日に試合のことが多いので、休みは月曜日と火曜日になります。

何週間かに一度、平日開催の水曜ゲームが入ってくるため、その週は休みはなしで、次の土曜日曜ゲームに備えます。

月曜日の休みはただ休むだけではなく、体のメンテナンスやウエイトトレーニングを午前中に行い午後から完全オフとなります。

私の場合は、家族が東京にいる ためトレーニングが終わり次第東京に向かい火曜日の夜まで家族との時間を過ごし、リフレッシュして福島県に帰るというオフを過ごしています。

水曜日からは朝からウエイトトレーニングが始まり、二時間ほどお昼休憩をはさんで、午後からバスケットボールの練習となります。
だいたいウエイトトレーニングが 1 時間〜2 時間程で、午後からの団体練習が1 時間半程度で終わり、そこからは自分の足りていないスキルなどを磨く個人練習が1 時間程度あり、終わり次第トレーナーによるメンテナンス時間となります。
その後はだいたい 18 時ごろになるので、チームと提携している食堂に行き夜ご飯を食べて帰宅となります。

木曜日も水曜日のスケジュールとほぼ一緒で、金曜日は試合前なので相手チームのスカウティングから始まり動きの確認をしてあまりきつい練習は行わず次の日の試合に備える日となります。

休日の試合が地方の場合は、朝スカウティングをしてから出発し、次の日の朝コートで確認練習をして夜の試合に挑みます。

私たちアスリートは、一日トレーニング、練習、メンテナンスを合わせても、だいたい5〜6時間で仕事が終わります。

睡眠を省いた、残り10時間をどのように過ごすかで、デュアルキャリアやセカンドキャリアが大きく変わると私は思い、今は兄と会社を作り、いろいろなことを学んでいる最中です。

#4 働きかた&評価の方法は?

プロバスケットボール選手の評価対象は、主にレギュラーシーズン60 試合とプレーオフの試合で、貢献度やチームの成績で評価されます。

チームによって評価の仕方や契約形態は異なりますが、私の所属する福島ファイヤーボンズでは、契約交渉の時にチームの評価基準を伝えられ目標値を設定されます。
その目標値を100%とし、レギュラーシーズンで何パーセント達成できたかで評価する仕組みになっています。
正直、このようなやり方はプロバスケットボール選手になって初めてで、評価の基準や目標設定を契約時に言われることも初めてでした。
このやり方は福島ファイヤーボンズの親会社でもある「識学」の方針で、会社のやり方をプロスポーツの世界にも盛り込めるという形でやっており、チームの成績が上がれば識学の考えがスポーツの世界にも 広まるので今シーズンも継続して行っています。

しかし、このシステムでは強いチームは作れないし、魅力のあるチームではないと私は思います。
なぜならバスケットボールはチームスポーツであり、個人競技ではなく、皆が皆自分の我を通してプレーしてしまうとボールは一つしかないので絶対にうまくいかない。
スーパースターが 5 人いても必ず不満が出てそこから崩れていく。
団体競技には影になる人物、犠牲になる人物がいてこそスーパースターが輝く世界で 、5 人が 5 人 輝くことはなく、皆が同時に輝けるときは勝利したときのみです。

福島ファイヤーボンズの評価の仕方では、スタッツに残らない役割の人間や試合にはあまり出ないがどんなときもチームを鼓舞するベテラン選手は評価対象外となる。
後に自分のスタッツを伸ばそうと自己中心的なプレーをする選手が増えてもおかしくない。

私の尊敬する監督は「チームのために犠牲になる選手を評価できる組織こそがチ ャンピオンチームだ」と言っていました。

この考え方がすべてだと、私は思います。

#5 プロスポーツ選手のお金と未来

選手によって契約形態は大きく変わりますが、私は年俸の月給制です。
複数年契約の場合は、マックス契約が3年と決められており、
3年間で何億や何千万の契約になります。

中にはチームと契約するタイミングで準備金として何百万かをもらうこともあり、それは人それぞれとなります。

契約の中には怪我をして何か月もバスケットができない場合は その期間給料の20%カットといった契約もあります。

他にもインセンティブ制度も多くあり、
勝利したときに発生する「勝利給」、
何分出場したかで決まる「出場給」、
シュート成功数をあらかじめ目標設定し達成した場合に支払われる「目標達成給」などがあります。

「勝利給」に関しては、月の給料と一緒に支払われ、だいたい 5万~10万程度がインセンティブとして入金されます。

他の「出場給」、「目標達成給」などは、シーズン終了時に 100万〜300万がインセンティブとして入金されます。

金額に関してはそれぞれ人によって異なるので、私が過去に結んだ契約を元に書いています。

ルーキーの場合は、2年目まで契約の条件が決められておりマックス480万で、インセンティブに関しては特別なル ールはないのでルーキーの間はそこで稼ぐというスタンスになっています。

副業に関しては、オンラインサロンやファンクラブを開設し、アパレルなどを作ったりして月に20〜30万程度稼いでいる人もいます。

他には個人スポンサーの物品提供、広告費などでスポーツメー カーと契約している選手も多くいます。

私の場合は副業としてデュアルキャリア、セカンドキャリアを見越した活動を去年からやって おり、現在はバスケット以外のところで名前を売り出すために社会貢献や地域貢献のほうを中心にやっています。

バスケットのキャリアが終わり、私には何が残るのだろうと考えた時正直ゾッとしました。

そして現在は兄と会社を作り、夢でもあるスポーツを中心とした街づくり、アスリートには発信する力、価値をまだまだ伝えきれていない一 人一人の魅力を社会の力へと変え、アスリートと社会を繋ぐ架け橋になりたいと思います。

PAGE TOP